ユリイカ「大貫妙子」特集に寄稿しています。

久しぶりの『ユリイカ』寄稿ということで、2025年12月臨時増刊号 総特集◎大貫妙子 ―デビュー五〇周年記念特集―に論考を書いています。

「サイバー《都会》と農奴と封臣: テクノ封建制のためのシティポップ・リバイバル」という、いったい何が書かれているんだ……的なタイトルにしました。いつもながら音楽の内容の話は出てこず、大貫妙子を現在聴く際のメディア・制度の批評みたいな話です。ちょっとこれ書いた結果としてあらためて自分の反省点というか不足点がはっきりしているんですが……。

ひとつは、教条的すぎる。(テック)左派的な文脈からプラットフォーム資本主義の問題点を提示する流れは、もちろん話的にはわかるだろう。しかし、もはやそんな論点を提出するだけで満足できるような議論ではなく、個別的・具体的にどういう問題があるのか(ないのか)? について、特定的に書かれなければならない。その点で、教科書的な記述に終始している点は非常に問題。とはいえ、大貫妙子を事例として取り上げなければ書けなかった流れであることは間違いないので、根本的にダメとかではないと考えている。

もうひとつは、「プラットフォーム」の問題を大まかに指摘しすぎ。教条的問題とも深く関わるところだが、プラットフォーム・サービスはサービスそれぞれで固有の収益構造があるし、サービスそれぞれのインターフェイスのデザインによってユーザーのアテンション引き具合も大きく異なるのに、そのあたりの議論まで降りて行けてない。たとえば、「教条的に」プラットフォーム資本主義の問題を語る対象としてAmazonやYouTubeは妥当だが、実際のところSpotifyやApple Musicには独特のあり方があるため適合しているかは微妙(大まかにはズレていないはずだが)。むしろ、そういう政治問題が存在するなかでのSpotifyのがんばり具合とかに目を向けることで、プラットフォーム資本主義の問題をもっと明確に論じられるはず。このあたり、紙幅と能力の限界が如実に出ているように、後から思われた。残念!! 今後の課題とさせていただきます。

なんだが自分の研究者としての位置づけについてもいろいろ考えさせられるところである。大貫妙子をめぐる音楽(と言葉への)批評が並ぶなかで、まったく音楽の批評じゃない文章を書いた。もちろんそうなる理由と構造があるので自分的には間違っていないんだが、社会的な需要と共有? みたいな線で、これでいいのか? お助け! みたいな感覚はある。もっとちゃんと「メディア研究」という枠組みに依拠した活動に収斂すべきなのかもしれないし……しかしそうなると弱いしなぁ~みたいな。がんばります。